nk2367nkの日記

覚え書きです。

今日のコラム

8月15日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

平和の価値を見直す

 最近、平和というものが、何かいわば空気や水のように、ごく当然に存在するものといった感じが強くなってきたのではないだろうか。平和の貴重さ、ありがたさがだんだん忘れられつつあるように感じられる。

 これは危険なことだと思う。平和は天然現象ではない。人為というか、人間の自覚と努力によってはじめて実現され、維持されるのである。

 だから、この際お互いにもう一度平和の価値というものを見直してみたい。そしてこの価値を知った上で、国民として何をなすべきかを考え合いたい。さもないと、せっかく続いたこの貴重な平和を遠からずして失うことにもなってしまうのではないだろうか。




2013年8月14日筆洗(東京新聞

筆洗

宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」に、工場で組み立てられた海軍の零式戦闘機が牛車に引っ張られていく場面がある。不思議に感じた人がいるかもしれないが、創作ではない

零戦を製造していた三菱重工名古屋航空機製作所には隣接する飛行場がなく、完成した胴体や翼を四十八キロ離れた各務原飛行場まで運んでいた。名古屋市を出ると、雨が降れば泥沼のようになる悪路が続く

▼機体を傷めずに運ぶには牛車を使うしかなかったのだ。日没後、製作所を出た牛車は二十四時間かけて慎重に歩む。機体には厳重にシートをかぶせ、要所には警官が立った

▼量産体制が整うと、牛の疲労が目立ち、疲労回復のために特配のビールを飲ませることも。飼料が不足すると牛はやせ細り、やがて温和で力の強いペルシュロン馬が荷を引いた(吉村昭著『零式戦闘機』)

▼最新鋭戦闘機が牛馬に引かれていた事実は、未来の運命を暗示しているようにも思える。戦況の悪化に伴い、零戦は二百五十キロ爆弾を抱き敵艦に体当たりする特攻機になる

▼「太平洋は、祖国の危機を救おうとねがう若者たちの壮大な自殺場と化した。かれらの死は、戦争指導者たちの無能さの犠牲とされたものであると同時に、戦争という巨大な怪物の無気味な口に痛ましくも呑(の)みこまれていったものなのだ」と吉村さん。歴史に学ぶべきことはあまりに多い。



2013年8月15日天声人語(OCN*朝日新聞デジタル

天声人語

角川書店の創業者で国文学者でもあった角川源義(げんよし)に〈命綱たのむをかしさ敗戦忌〉の一句がある。1975年の8月15日にがんで入院し、最期の闘病中に詠んだと、長女で作家の故・辺見じゅんさんからお聞きしたことがある

▼同世代が大勢落命したのに、自分は生き延びた。いま病を得て、治療を命綱と頼んでいる。そんな我が身を突き放して眺めた句であろう。源義氏は「終戦」という言葉を嫌った。辺見さんが不用意に使うと、「あれは敗戦だ。終戦なんて簡単に言うな」と怒ったそうだ。譲れない一点だったようである

▼同じ思いの人は少なくないと見え、この欄でも毎年「終戦」と書くと、ご意見が届く。やや意味合いは異なるが、「終わるものなら、なぜ」と恨む手紙もあって考えさせられる

▼先の戦争での日本人戦没者は軍民で約300万人。その数は戦争の末期に激増し、最後の1年で200万人近くが落命した。特攻、沖縄、空襲、原爆――悲劇の多くがこの間に起きている

▼特攻隊で8月15日に出撃予定だった人の話を、朝日小学生新聞で読んだ。命拾いしたのだが、数日早く出撃した人もいよう。最後の1年を逆回しして玉音放送を早めてみれば、死なずにすむ人は日々増える。きょうは遅すぎた敗戦の日でもある

▼「敗戦」への執着は、無謀な戦いに突き進んだ愚を忘れまいとする戦中派の心であろう。「軍事力の敗北であった以上に若い文化力の敗退であった」と源義氏は述べている。色あせぬ言葉だと思う。